人がどのように事実かどうかを判断するか、裁判と日常生活の考え方の違いを考えてみました。

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 しばしば、裁判で、相手の言い分とこちらの言い分が真っ向から食い違うことがあります。

 その際、ご質問いただくのが、裁判所が相手の言い分を信じてしまったらどうしよう、というお悩みです。

 この質問をいただいた際には、裁判の事実認定の方法をご説明していますが、この質問の背景には、日常生活での「実際に何が起こったか」についての把握の仕方が大きく影響していると感じています。

 そこで、以下では、私見として、日常会話(日常生活)と裁判での、事実に関する把握の仕方を整理してみたいと考えています。

 以下は、私の極めて個人的な考えですので、あらかじめご了承ください。

日常生活における事実の把握の仕方

日常生活では、事実が何かを突き詰めて考えることはあまりない。

 1つ目の前提としてご説明したいのは、日常生活で、それが事実かどうか、ということを突き詰めて考えることは、実は多くないのです。

 家族との会話、職場での会話、友人との会話の中で、事実(例えば、昨日何食べた、)を聞くことがあっても、それが本当かを確認する機会は、そもそもあまりありません。

 例えば、妻が、夫の愚痴を妻の友人に話したとき、妻の友人は、その愚痴の内容が事実なのか、本当に夫が悪いのか、ということを突っこんで聞く、ということはまずないでしょう。

 その理由は、抽象的な言い方をすれば、日常会話の目的が、事実をめぐるものではなく、感情を交換するものだから、といえるかと思います。

 極端な言い方をすれば、妻の友人からすれば、夫が悪いかどうかはどうでもよく、夫の愚痴に共感してあげることが重要だからです。

人は日常生活で嘘はほとんどつかない。日常生活では相手が嘘をつくとは思わない。

 2つ目の前提としてご説明したいのは、日常生活では、(一般の人は)嘘はほとんどつかない、ということです。

 ご自身が最近ついた嘘を思い出してみてください。仕事がらみで多少嘘をついたり、家庭のお金のことで多少嘘をついたりしたことは有るかもしれませんが、たぶん数えられるほどだと思います。人はほとんど嘘をついていないのです。

 このことを、話を聞く側から見ると、例えば先ほどの例でいえば、もしかしたらその妻はうそをついているかもしれない、と疑うことは、まずないといえます。

 別の例を挙げれば、友人から、コンビニの新製品のお菓子が美味しかったお勧めされたとき、それは本当かと疑うことはまずないでしょう。実際はあまりおいしくなかったけど、敢えて美味しかったと嘘をついているのだと思われる方はまずいないと思います。

 もちろん、やましいことがあると(例えば不倫している、家庭のお金を使い込んだ、など)嘘をつくかもしれませんし、故意に嘘をついて詐欺を働くケースもあるため、そのまま信じることはいけません。

 しかし、そのような疑いを抱いていない場合、日常生活レベルでは、相手が嘘をついているとは思わないい、というのは、一般の方の認識の方法としてあると思います。

日常生活では、人が話したことを事実と「思い込む」傾向があります。

 上記2つの前提から、日常会話では、事実が何かを突き詰めて考えることはせず、また、人はほとんど嘘をつかない、と考えられるのではないでしょうか。

 この2つの前提から、日常会話では、突き詰めて考えないし、嘘をついているとも思わないので、人が話した事実はなんとなく自然に、事実として受け入れられていく傾向にあります。

 これをもう少し発展させると、日常会話レベルでは、客観的なことではなく、人の話した内容をベースに、物事をとらえる、もっと踏み込んでいえば、人は、人の話を真実と思い込んでしまう傾向がある、といってもいいかもしれません。

 実際、私がお客様とお話ししていると、相手が話すのが上手いから、相手の話を裁判官が信用してしまうのではないか、と心配に思われる方が良くいらっしゃいます。また、相手が言っていることが本当のことと思われてしまわないか心配、という方もいらっしゃいます。突っ込んでお話をしていると、いずれも、上記のような、人の話は基本的に信用される、信じてしまう、真実と思い込んでしまうという前提があるといえるかと思います。

裁判における事実認定の方法

 裁判における事実認定の方法は、一言では語りつくせないことですが、上で説明した内容と対比した特徴として、認否(双方の言い分を聞く)と証拠、ということが挙げられるかと思います。

当事者双方の言い分を聞く

 まず、裁判では、当事者が2人いるため、必ず双方の言い分が出てきます。日常会話ではたまたま双方から話を聞くことになった、ということはあるかもしれませんが、基本的には一方の話だけ聞くことがほとんどです。

 裁判では、双方の言い分を聞き、一方の言い分が正しいのか間違っているのか(認否)を主張させることとなり、この点は、日常会話と大きく異なる部分です。

 このため、裁判では、結果として双方の言い分が裁判所に提示されるため、どちらが正しいのか(それとも両方正しいのか、両方間違っているのか)を検討する機会が生じるのです。

証拠に基づいて審理が行われる

 また、裁判では、証拠に基づいて審理が行われる、というのも一つの特徴です。日常会話では、人の話を聞いた際に、証拠を見せてほしいと求めることはあまりないと思います。また、証拠が示されても、それが本当に証拠になるのか(例えば腕の「痣」が叩かれたものか、ぶつけたものかなど)の検討をすることはまずないといえます。

 裁判では、証拠が示される結果、双方の言い分が正しいのか間違っているのか、証拠によって判断できる場合があるということです。

事実のとらえ方に関する大きな違い

 ここまでの説明であれば、日常生活と違い、双方から話を聞くんだな、話が食い違っていたら、証拠をもとに判断するんだな、と、日常会話の延長線上でとらえられるかもしれません。

 しかし、裁判では、ここから、ある意味では大きな発想の転換が行われ、その結果、事実をどういう風に判断するかは、日常会話(日常生活)と大きく異なっていくのです。

どちらが正しいかではなく、「通常人が疑いをさしはさまない程度に真実性の確信を持ちうる」ことが必要

 日常生活で、何が事実かを、双方の話を聞いて判断するとき、一般の方は、どちらかが事実で、どちらかが事実でないと、考えるかと思います。

 もう少しわかりやすくいうと、どちらが信用に足りるか、と考えるかと思います。

 どちらも事実ではない、というのは、日常生活では、猜疑心が強すぎるといわれてもやむを得ないでしょう。

 しかし、裁判では、何が事実かを判断するときは、それが「通常人が疑いをさしはさまない程度に真実性の確信を持ちうる」かどうかを基準に判断します。

 つまり、双方の話を聞いたのち、仮に一方の方が信用できそうだと思っても、「疑い」がさしはさまる程度の内容であれば、それを事実と捉えることはないのが、原則です。どちらも事実ではないかもしれない、という前提の下で話を聞いているのです。

 もう少し裁判という視点でご説明すると、双方の言い分が食い違い、客観的な証拠も乏しい場合には、裁判所は、どちらか一方の言い分が事実であると認めることには、極めて慎重な姿勢を示す、といえるかと思います。

人の話ではなく、動かしがたい事実から出発する。

 また、裁判のもう一つの特徴は、いわゆる「動かしがたい事実」から出発する点です。

 日常生活では、人の話を聞き、それが正しいかを証拠で確かめる、という考え方をとることがほとんどです。

 これに対して、裁判の一般的な事実の判断は、まず、双方の言い分が一致するところや、証拠から容易に認められる事実(これを、「動かしがたい事実」ということがあります)を確認します。

 この事実の上に、双方の言い分(「ストーリー」と呼ぶことがあります)をいわば載せてみて、どちらの方が動かしがたい事実に整合するのか(もしくはいずれも整合しないのか)、という流れで判断します。

 この発想の違いは、裁判における事実認定を考えるうえで非常に重要です。証拠は、自分の言い分が正しいことを示すという副次的なものではなく、動かしがたい事実の認定に使われる、事実認定の基礎を支える屋台骨といっても過言ではないと私は考えています。

まとめ

 これまでご説明してきましたが、裁判における事実を知るプロセスは、一般の日常生活と大きく異なっていると感じています。

 発想の違いというのは、自覚的にならないと意識されず、結果として話がかみ合わない原因になることがしばしばあるため、私の考えをまとめる意味も込めて、記事にしてみました。